ウクライナ独立宣言令は ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の最高会議によって、1991年8月24日に採択された。
この法令により、ウクライナはソ連からの国家独立を回復した。この宣言は、ウクライナ独立住民投票で全土のウクライナ人大多数によって承認され、その翌日から国際的な承認が始まった。ウクライナの独立は、1991年12月26日のソビエト連邦の崩壊へつながった。
採択
この法令は、8月19日、共産党の強硬派指導者が中央委員会による統制を回復しようとした「ソ連クーデター未遂事件」の余波の中で採択された。緊迫した11時間に及ぶ特別会議を行い、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の最高会議(議会)は、宣言令を圧倒的多数(360名中、賛成321票、反対2票、棄権6票)で可決した。宣言文は主に、レフコ・ルキアネンコ(英語: Levko Lukianenko)、セルヒー・ホロヴァティ(英語: Serhiy Holovatyi)、ミハイロ・ホーリン(英語: Mykhailo Horyn)、イヴァン・ザイエツ(Ivan Zayets)、 ヴャチェスラフ・チョルノビルによって8月23日の夜から8月24日にかけて作成された。
ウクライナ共産党(CPU)員であり、ウクライナ最高会議議長(英語: Chairman of the Verkhovna Rada)のレオニード・クラフチュクが舞台裏で動いていたが、党はクーデターから距離を置くためにこの法令を支持せざるを得ないと感じた。共産党第一書紀スタニスラフ・フレンコは、独立を支持しなければ「大惨事になる」と主張した。ゴルバチョフの書記長代行ウラジーミル・イワシコ(ウクライナ出身)のモスクワでの逮捕、ロシア共和国指導者によるソ連軍再掌握、ソ連共産党中央委員会の無力化というニュースに、ウクライナ共産党のメンバーは動揺していた。
8月24日、議会は独立宣言に関する国民投票を求めた 。提案したのは、野党指導者のイゴール・ユフノフスキー(英語: Ihor Yukhnovskyi)とドミトロ・パヴリチコ(英語: Dmytro Pavlychko)である。議会はまた、ウクライナ国家親衛隊の創設に賛成票を投じ、ウクライナ領内に駐留するすべての軍隊の管轄権を議会に移譲した。
国会議事堂に集まった騒々しい群衆を除けば、その日のキーウの街は静かで、祝賀の気配はうすかった。
その後の数日間で、いくつかの決議と法令が可決された。「すべてのウクライナ共産党の資産を国有化し、最高議会(ヴェルホーヴナ・ラーダ)と地方議会に引き渡すこと」「すべての政治犯に恩赦を与えること」「モスクワのクーデター計画者との協力に関する公式調査が行われるまで、ウクライナ共産党のすべての活動を停止し、資産と銀行口座を凍結すること」「クーデター中の当局者の行動を調査する委員会を設置すること」「ウクライナ国防省の創設を検討する委員会を設立すること」などである。
1991年8月26日、(国連の創設メンバーであった)ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の国連常駐代表ヘンナディー・ウドベンコは、国連事務総長に対し、自身の国連での任務が正式にウクライナを代表することを伝えた。同日、キーウの執行委員会は、中心部の十月革命広場にあるレーニン像を含む共産主義英雄の記念碑を公共の場からすべて撤去することを決議した。委員会は、大きな広場とその下にある中央地下鉄駅を独立広場と改名することを決定した。
ニ日後、リヴィウとリヴィウ州の住民20万人以上が国家親衛隊への志願を宣言した。
1991年12月1日の独立住民投票では、ウクライナ国民は独立宣言令に対する深く広い支持を表明し、有権者の84%が投票し、90%以上が賛成した。ウクライナ初の直接大統領選挙も国民投票と同じ日に実施され、大統領候補6人全員が独立を支持し、「賛成」票を投じるよう活動した。国民投票の可決により、ソ連が限定的であっても存続する可能性はなくなった。ウクライナは長い間、ソ連内で経済力と政治力でロシアに次ぐ地位にあった。
選挙から一週間後、新しく大統領に選出されたレオニード・クラフチュクは、ロシアとベラルーシの大統領(それぞれボリス・エリツィンとスタニスラフ・シュシケビッチ)とともに、ソ連の解体を宣言するベロヴェーシ合意に署名した。ソビエト連邦は12月26日に正式に崩壊した。
1992年以来、8月24日はウクライナの独立記念日として祝われている。
国際承認
ポーランドとカナダは、12月2日にウクライナの独立を承認した最初の国であった。同日、テレビニュース番組『Vesti』の夜間放送で、ロシア連邦社会主義共和国のボリス・エリツィン大統領がウクライナの独立を承認したと報じられた。
米国は12月25日にこれを承認した。同月、ウクライナの独立は68か国によって承認され、1992年にはさらに64か国によって承認された。
1992年1月、国防長官の管理下で行われる、ウクライナと旧ソ連の他地域に対する人道支援プログラムをジョージ・H・W・ブッシュ米大統領が承認した。
宣言文
ウクライナ独立宣言令
- 1991年8月19日のソ連における国家クーデターに関連して、ウクライナを取り巻く致命的な危険を考慮し、
- ウクライナにおける国家発展の千年の伝統を継続し、
- 国連憲章およびその他の国際法文書に従った国家の民族自決から出発し、
- ウクライナ国家主権を宣言し、
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国最高議会は、
ウクライナの独立と国家「ウクライナ」の創設を厳粛に宣言する。
ウクライナの領土は分割不可能かつ侵すことのできないものである。
この日以降、ウクライナの領土ではウクライナ憲法と法律のみが効力を持つ。
この法令は承認された時点で発効する。
—ウクライナ最高議会、1991年8月24日
関連項目
- ウクライナの政治
- ウクライナの歴史
- ソ連8月クーデター
- 1991年ウクライナ独立住民投票
注釈
出典
外部リンク
- (ウクライナ語) Act of Declaration of Independence of Ukraine – 最高議会公式ウェブサイト
- (英語) Act of Declaration of Independence of Ukraine – 最高議会公式ウェブサイト
- (英語) Act of Declaration of the Independence of Ukraine – en:The Ukrainian Weekly, ウクライナウィークリーによる宣言令の英語訳
- (英語) Declaration of Independence of Ukraine – The Windsor Viter, Volume 12, Number 1, July, 2001 Part 2(Andrew Gregorovichによる翻訳)
- (ウクライナ語) "Great Saturday" –1991年8月24日の出来事に関する作家であり国会議員でもあるステパン・プシク氏(Stepan Pushyk)へのインタビュー

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